奈良県(鹿県)

奈良県は旧大和一国そのままです。明治20年に大阪府から分離したなだらかな地形の盆地で、水運に好都合な河川が盆地内から大阪湾に続いており、古代人にとって比較的容易な生産と生活の場であたといえます。

 

藤原京とそれに続く平城京は唐の長安にならった日本で初めての本格的な都市だったと言われていますが、桓武天皇はあえて山城国の長岡京、ついで平安京への移転を決意します。一言でいえば、平城京を頂点とする強力な中央集権国家や豪華な寺院などは、それほど危険な外敵もなく経済活動も活発でなかった当時の日本の国力にとって高コスト過ぎる分不相応なものだったということなのです。

 

政府は文化活動に専念して、軍隊と行政を縮小し、荘園などによる民活型で地方経営をしたのが平安時代、用心棒である武士に政治や行政も任せたのが鎌倉時代以降ということになります。

 

都が山城に移ったあとも、奈良の社寺は荘園から上がる膨大な収入を維持し、大和の国も社寺の私領からなるモザイク状態になりました。確かに社寺は栄えましたが、そこから新しい日本文化が生み出されることも仏教が新たな発展をすることもそれほどありませんでした。

 

それでも、二度にわたって炎上した大仏殿が源頼朝や徳川綱吉によって再建されたのは、若々しい統一国家として日本を創り上げ、その象徴として大仏を建立した天平人への敬意の表れなのでしょう。

 

大和の国が少しすっきりしたのは、豊臣秀吉の弟で大和大納言といわれた秀長のお陰です。大和郡山に城を築いた秀長は、ややこしい土地や利権についての係争を巧みにさばいてしがらみを解いていきました。そのとき、秀長は示談金のようなものを与えて手打ちをさせるという手法を上手に使ったと言われています。

 

江戸時代には、柳沢吉保の子孫が甲府から左遷させられて15万石で入ったほかは、寺領や小藩に分かれ奈良には幕府の奉行所が置かれました。大阪の食い倒れ、京都の着倒れに対して奈良の「寝倒れ」などという言葉もありますが、他人を押しのけてもということなく比較的のんびりとして人の出方待ちというところがあります。また、成功すると住居にはお金をかけるというので、「奈良の建て倒れ」という言葉もあります。

 

南北朝時代の伝説に彩られる吉野地方を中心とした県南は林業王国です。昔から近江出身の繊維商と並んで大和の材木商は大阪商人の主流をなしており、大和ハウス工業のオーナーである石橋家も奈良出身です。

 

北部の京阪奈丘陵には二十一世紀の日本文明の総本山をめざして関西文化学術研究都市が、ふだんは他人行儀の大阪と京都が前向きに協力して建設されました。

 

有名人では大和路を撮り続けた写真家の入江泰吉氏、同和問題を扱った『橋のない川』の著者の住井すゑ氏が近代の奈良県を代表しています。

 

政治家としては国粋主義的な発言でしばしば物議を醸した奥野誠亮氏(元法務大臣)が古い大和国を象徴するとすれば、高市早苗氏が新住民を多く抱える新しい時代の奈良県にふさわしいのではないでしょうか。